外国為替 専門用語集5

オーバーナイト・ポジションとは
オーバーナイト・ポジション (overnight position) 同一取引日の内に手仕舞いせず、翌日以降に持ち越すポジション。取引日の2営業日後に資金受渡を行わず、スワップ・ポイントを加減しロール・オーバーを行う。 無垢フローリングは2月12日に東海道先鋒軍の薩摩諸隊差引(司令官)、14日に東征大総督府下参謀(参謀は公家が任命され、下参謀が実質上の参謀)に任じられると、独断で先鋒軍(薩軍一番小隊隊長中村半次郎・二番小隊隊長村田新八・三番小隊隊長篠原国幹らが中心)を率いて先発し、2月28日には東海道の要衝箱根を占領した。占領後、三島を本陣としたのち、静岡に引き返した。3月9日、静岡で徳川慶喜の使者山岡鉄舟と会見し、徳川処分案7ヶ条を示した。その後、大総督府からの3月15日江戸総攻撃の命令を受け取ると、静岡を発し、11日に江戸に着き、池上本門寺の本陣に入った。 3月13日、14日、勝海舟と会談し、江戸城無血開城についての交渉をした。当時、“ トラック買取 の後ろ盾”となっていたイギリスは日本との貿易に支障が出ることを恐れて“江戸総攻撃に反対”していたため、「江戸無血開城」は新政府の既定方針だった。橋本屋での2回目の会談で勝から徳川処分案を預かると、総攻撃中止を東海道軍・東山道軍に伝えるように命令し、自らは江戸を発して静岡に赴き、12日、大総督有栖川宮熾仁親王に謁見して勝案を示し、さらに静岡を発して京都に赴き、20日、朝議にかけて了承を得た。江戸へ帰った西郷は、4月4日、勅使橋本実梁らと江戸城に乗り込み、田安慶頼に勅書を伝え、4月11日に江戸城開城が成った。 江戸幕府を滅亡させた西郷は、仙台藩(伊達氏)を盟主として樹立された奥羽越列藩同盟との「東北戦争」に臨んだ。 5月上旬、上野の彰義隊の打破と東山軍の奥羽白河城攻防戦の救援のどちらを優先するかに悩み、江戸守備を他藩にまかせて、配下の薩摩兵を率いて白河応援に赴こうとしたが、大村益次郎の反対にあい、上野攻撃を優先することにした。5月15日、上野戦争が始まり、正面の黒門口攻撃を指揮し、これを破った。5月末、江戸を出帆。京都で戦況を報告し、6月9日に藩主忠義に随って京都を発し、14日に鹿児島に帰着した。この頃から健康を害し、日当山温泉で湯治した[4]。 セミナーの戦況が思わしくないため、西郷の出馬が要請され、7月23日、薩摩藩北陸出征軍の総差引(司令官)を命ぜられ、8月2日に鹿児島を出帆し、10日に越後柏崎に到着した。来て間もない14日、新潟五十嵐戦で負傷した二弟の吉二郎の死亡を聞いた。藩の差引の立場から北陸道本営(新発田)には赴かなかったが、総督府下参謀の黒田清隆・山縣有朋らは西郷のもとをしばしば訪れた。新政府軍に対して連戦連勝を誇った庄内藩も、仙台藩、会津藩が降伏すると9月27日に降伏し、ここに「東北戦争」は新政府の勝利で幕を閉じた。このとき、西郷は黒田に指示して、庄内藩に寛大な処分をさせた。この後、庄内を発し、江戸・京都・大坂を経由して、11月初めに鹿児島に帰り、日当山温泉で湯治した。 薩摩藩参政時代 明治2年(1869年)2月25日、藩主忠義が自ら日当山温泉まで来て要請したので、26日、鹿児島へ帰り、参政・一代寄合となった。以来、藩政の改革(藩政と家政を分け、藩庁を知政所、家政所を内務局とし、一門・重臣の特権を止め、藩が任命した地頭(役人)が行政を行うことにした)や兵制の整備(常備隊の設置)を精力的に行い、戊辰参戦の功があった下級武士の不満解消につとめた。文久2年(1862年)に沖永良部島遠島・知行没収になって以来、無高であった(役米料だけが与えられていた)が、3月、許されて再び高持ちになった。 5月1日、包茎 の応援に総差引として藩兵を率いて鹿児島を出帆した。途中、東京で出張許可を受け、5月25日、箱館に着いたが、18日に箱館・五稜郭が開城し、戦争はすでに終わっていた(戊辰戦争の終了)。帰路、東京に寄った際、6月2日の王政復古の功により、賞典禄永世2000石を下賜された。このときに残留の命を受けたが、断って、鹿児島へ帰った。7月、鹿児島郡武村に屋敷地を購入した。9月26日、正三位に叙せられた。12月に藩主名で位階返上の案文を書き、このときに隆盛という名を初めて用いた[4]。明治3年(1870年)1月18日に参政を辞め、相談役になり、7月3日に相談役を辞め、執務役となっていたが、太政官から鹿児島藩大参事に任命された(辞令交付は8月)。 監視カメラと廃藩置県 明治3年(1870年)2月13日、西郷は村田新八・大山巌・池上四郎らを伴って長州藩に赴き、奇兵隊脱隊騒擾の状を視察し、奇兵隊からの助援の請を断わり、藩知事毛利広封に謁見したのちに鹿児島へ帰った。同年7月27日、鹿児島藩士・集議院徴士横山安武(森有礼の実兄)が時勢を非難する諫言書を太政官正院の門に投じて自刃した。これに衝撃を受けた西郷は、役人の驕奢により新政府から人心が離れつつあり、薩摩人がその悪弊に染まることを憂慮して[5]、薩摩出身の心ある軍人・役人だけでも鹿児島に帰らせるために、9月、池上を東京へ派遣した[6]。 12月、危機感を抱いた政府から勅使岩倉具視・副使大久保利通が西郷の出仕を促すために鹿児島へ派遣され、西郷と交渉したが難航し、欧州視察から帰国した西郷従道の説得でようやく政治改革のために上京することを承諾した。 明治4年(1871年)1月3日、西郷と大久保は池上を伴い「政府改革案」を以て上京するため鹿児島を出帆した。8日、西郷・大久保らは木戸を訪問して会談した。16日、西郷・大久保・木戸・池上らは三田尻を出航して土佐に向かった。17日、西郷一行は土佐に到着し、藩知事山内豊範・板垣退助と会談した。22日、西郷・大久保・木戸・板垣・池上らは神戸に着き、大坂で山縣有朋と会談し、一同そろって大坂を出航し東京へ向かった。東京に着いた一行は2月8日に会談し、御親兵の創設を決めた。この後、池上を伴って鹿児島へ帰る途中、横浜で青年東郷平八郎に会い、勉強するように励ました[7]。 2月13日に鹿児島藩・山口藩・高知藩の兵を徴し、御親兵に編成する旨の命令が出されたので、西郷は忠義を奉じ、常備隊4大隊約5000名を率いて上京し、4月21日に東京市ヶ谷旧尾張藩邸に駐屯した。この御親兵以外にも東山道鎮台(石巻)と西海道鎮台(小倉)を設置し、これらの武力を背景に、6月25日から内閣人員の入れ替えを始めた。このときに西郷は再び正三位に叙せられた。7月5日、制度取調会の議長となり、6日に委員の決定権委任の勅許を得た。これより新官制・内閣人事・廃藩置県等を審議し、大久保・木戸らと公私にわたって議論し、朝議を経て、14日、天皇が在京の藩知事(旧藩主)を集め、廃藩置県の詔書を出した。また、この間に新官制の決定や内閣人事も順次行い、7月29日頃には以下のような顔ぶれになった[8](ただし、外務卿岩倉の右大臣兼任だけは10月中旬にずれ込んだ)。 この 粗大ゴミについては、各藩主に御親兵として兵力を供出させ、手足をもいだ状態で、廃藩置県をいきなり断行するなど言わば騙し討ちに近い形であった。 留守政府 軍服姿の西郷隆盛明治4年(1871年)11月12日、三条・西郷らに留守内閣(留守政府)をまかせ、特命全権大使岩倉具視、副使木戸孝允・大久保利通・伊藤博文・山口尚芳ら外交使節団が条約改正のために横浜から欧米各国へ出発した(随員中に宮内大丞村田新八もいた)。西郷らは明治4年(1871年)からの官制・軍制の改革および警察制度の整備を続け、5年(1872年)2月には兵部省を廃止して陸軍省・海軍省を置き、3月には御親兵を廃止して近衛兵を置いた。5月から7月にかけては天皇の関西・中国・西国巡幸に随行した。鹿児島行幸から帰る途中、近衛兵の紛議を知り、急ぎ帰京して解決をはかり、7月29日、陸軍元帥兼参議に任命された。このときに山城屋事件で多額の軍事費を使い込んだ近衛都督山縣有朋が辞任したため、薩長の均衡をとるために三弟西郷従道を近衛副都督から解任した。明治6年5月に徴兵令が実施されたのに伴い、元帥が廃止されたので、西郷は陸軍大将兼参議となった。 なお、明治4年(1871年)11月の岩倉使節出発から明治6年(1873年)9月の岩倉帰国までの間に西郷主導留守内閣が施行した主な政策は以下の通りである。 明治六年政変 脱毛は、明治元年(1868年)に李朝が維新政府の国書の受け取りを拒絶したことに端を発しているが、この国書受け取りと朝鮮との修好条約締結問題は留守内閣時にも一向に進展していなかった。そこで、進展しない原因とその対策を知る必要があって、西郷・板垣退助・副島種臣らは、調査のために、明治5年(1872年)8月15日に池上四郎・武市正幹・彭城中平を清国・ロシア・朝鮮探偵として満洲に派遣し(鹿児島県史料・忠義公史料』第7巻)、27日に北村重頼・河村洋与・別府晋介(景長)を花房外務大丞随員(実際は変装しての探偵)として釜山に派遣した[9]。 明治6年(1873年)の対朝鮮問題をめぐる政府首脳の軋轢は、6月に外務少記森山茂が釜山から帰って、李朝政府が日本の国書を拒絶したうえ、使節を侮辱し、居留民の安全が脅かされているので、朝鮮から撤退するか、武力で修好条約を締結させるかの裁決が必要であると報告し、それを外務少輔上野景範が内閣に議案として提出したことに始まる。この議案は6月12日から7参議により審議された。